「IT好き?」「ITは嫌いじゃないです」
――小学生の時、理科の実験が大好きでした。好きが高じて薬学部に進学しました。製薬企業の研究開発期間は10-20年と長く、自分の専門(化学)が最も川上であったことから「企業に入るなら研究は続けない」と思いました。当時、採用部の先輩の「IT好き?」という質問に対して、まったくITが何かわからなかったので「嫌いじゃないです」と言ったのがきっかけで、研究所のIT担当として入社することになりました。
研究所内のIT担当は、こういうことをやりたいという研究員の意図を組んで、システム利用やデータ解析などのサポートをする仕事でした。ITをよく知らない一方で研究員の言葉を理解できたので、IT用語で話さない自分は、研究員には重宝されたようです。
もともとIT領域に長くいることも、一つの会社に長く勤めることも想定していませんでした。しかし、結果として30年、ずっと一つの会社のIT部門に所属しています。
入社した1992年当時は、インターネットもなかったし、パソコンも1人1台ありませんでした。それが、モバイルが出てきたり、AI、デジタルと進んできたり、この30年のITの変化に飽きることはありませんでした。
「外国人苦手」から、ITのグローバル化推進がライフワークに
●現在、グローバルのIT部門長としてご活躍されていますが、初めて海外でお仕事された時のことを教えてください。
――96年に当時の情報システム部長(私は“未来からタイムマシンに乗ってきた宇宙人”と呼んでいます)が「これからITはグローバル化しなければならない。そのためには人材交流、そのためには部下を海外に・・・」と私を長期出張でオランダに送りました。その部長はグローバル化に加え、モバイルで実現されるユビキタスなど、世界に先立ち、90年代に多くの方針を打ち立てた人です。情報システムを大きく変える方向付けをされた方で、今でもその先見性には驚きますね。
オランダに行った頃は英語が全然できず、冗談抜きに本気で困りました。でも、本当に困ったのは、自分よりも自分を受け入れたオランダのIT部門だったでしょう。最初の3か月はただニコニコしているだけの人形のようでした・・・。会議に出てもよくわからない3か月でしたが、IT用語がわかってきて、自分の意見を伝えたくてホワイトボードに絵を描いたりもしました。それまでは外国人が苦手でしたが、オランダ人の方々が優しかったのでグローバルいいかも、と思うようになりました。
それから、20年ほどはITのグローバル化推進がライフワークのようになっていき、2008-2010年にもイギリスに赴任して、欧州ITインフラ運用アウトソーシングプロジェクトに参画し、数多くの欧州販社に訪問して現場の意見を聞くことができました。
そして、2011年に日本のコーポレートIT部長、2015年にグローバル情報システム部長に就任しました。今は各国にメンバーがいます。地域でなく機能を軸としたグローバルな組織として運営しているので、上司やチームメンバーが同じ国にいないケースが多々あります。
●では、コロナの影響で海外に出張できないなど、大変な2年間だったのですか?
――私自身は仕事上、コロナのダメージはありませんでした。やはり、海外出張は時間もかかりますし体力も使います。効率化のため、コロナ前の5年以上前から、どれだけ海外出張しないで組織運営できるか、挑んでいた部分もあったので(笑)。
以前の海外メンバーとの会議は画面のない電話会議で、自分だけが日本から電話で参加していて孤立感が強い会議もありました。今は、オンライン会議の中では世界中全員がどこにいても同じような環境・距離感で話ができるので、テレワークの浸透や関連ツールの進化によりグローバル組織運営やプロジェクトマネジメントは非常にやりやすくなったという印象です。
弊社の日本本社も完全フリーアドレスです。7フロア分くらい、全部署をまたいでのフリー席で、お隣は全く違う部署の方が座っていることもあります。だから、どこで仕事しようと、どこでもできますよ。
●これまでのお仕事で、一番思い出に残っているお仕事は?
――2005年の合併準備と並行して進めたIT子会社解散と業務移管のプロジェクトです。合併前に自分が所属していない会社のIT子会社解散のプロジェクト事務局を担当しました。その会社の従業員とそのご家族の人生に関わる仕事をしていると感じた時に、かつてないプレッシャーを感じました。このプロジェクトを自分が進められたのは、当時のIT子会社社長が親分肌の方で、「社員のことは俺に任せろ」と言ってくださったことをはじめ、本気で社員のことを考えて協力してくださったことが理由の一つです。
●ご自身の中で、宇宙人的なところがあるとしたら?
――超前向きなことだと思います。とにかくやってみることが好きです。成功するとも限らなくても、失敗してもめげません(許容できる失敗は成功に向けての過程。撤退・中断からは学べることがある)。困難な状況からも前向きなポイントを見つけるのは得意ですね。
決して良くないことなのですが、野球でいえば、自分の今の立場はGMのように観客席にいなければならないのに、ついついユニフォームを着てフィールドに出て、自分で投げたり打ったりしてしまうことがあります。なるべくしないでおこうと思うのですが。
部員には、2つのことについては、厳しく伝えています。ひとつは、「ルールをないがしろにしないこと」。誤解を恐れずに言うと、ルールは守るべきものではなく、変えていくものだと思います。社会がどんどん変わっていく中で、そぐわなくなってくるルールが出てくる。だからといってそれを自分だけ守らないのは反則で、ルールを変えるべきだと声をあげて、ルールを変えるべき人を動かしてほしいです。
もうひとつは、「手を抜かないこと」です。やってみての失敗も最善を尽くしての結果だったら、次の方法を考えればよいですが、能力があっても手を抜く人には周りがついてきません。
また、人がパフォーマンスを発揮できるか否かは、不安要素がどのくらい取り除かれているかにあると思います(車の運転時に不安要素があればあるほどアクセルを踏めないのと同じです)。メンバーの不安を取り除くため、リーダーは自分の想いを分かりやすく共有し、どっしり構えていないといけないですね。
補助輪なしの自転車に乗る
――“できない”ことに取り組むこと。補助輪なしの自転車に乗る練習をする時、ほとんどの人は乗れない時に練習するのです。それを怖がったり嫌がったりせずに練習することで、数年たって「あの時にやっておいて良かった」と思えます。
私はこれまで、自分でできるとは思っていないような仕事に従事する機会を繰り返し与えていただきました。最初は「拒否する」という選択肢にも気づかず、怪我をしながら新しい仕事に従事し、周囲の皆さんに助けられて結果を出してこられたように感じます。この感覚は、あくまで振り返ったから感じられるものなので、だまされたと思って“できない”ことに積極的に取り組んでほしいです。
●人生において、大切にしていることを教えてください。
――運と縁と恩。本当は「あ・い・う・え・お」をすべて使いたいのですが、愛(あ・い)は恥ずかしいので運(う)と縁(え)と恩(お)としています。運は転がってきて転がっていくボールのようなもので、ここぞというタイミングで、自分で手を伸ばしてつかむ必要があります。その運がたくさん転がってくる磁力のような働きをするのが縁だと考えます。
●最後にJUASについて、感じている事やアドバイスがあればお願いいたします。
――不安は人に相談することで乗り越えることができることがあります。JUASは社外で相談できる人脈を作る機会を提供してくれます。社内では聞きづらいことを、逆に社外だから相談できることもあります。これからもそんな場を提供し続けてほしいです。
若手の皆さんにも、研究会やJUASカフェなどに参加してもらって、社外の人脈を広げてもらいたいですね。
マッチングアプリのような、JUAS参加企業からの問い合わせ、相談に対して回答できそうな、語ってくれそうな別のJUAS参加企業とつなぐ仕組みがあると助かる人は多いと思いますね。
※ 掲載内容は2022年7月取材時のものです。
※インタビューはJUAS 姉川、五十井が担当しました。
・1962年設立の「日本データ・プロセシング協会」が前身。
1992年に組織を拡充・改組し、今の「日本情報システム・ユーザー協会」となる。
・主な活動:フォーラム、研究会、セミナー、イノベーション経営カレッジ、企業IT動向調査、JUASスクエア、プライバシーマーク審査
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