リレーインタビュー

第17回 スズキ株式会社 野中 彰 氏インタビュー

変わることを恐れずに、変化を受け止めていく

野中 彰 氏

スズキ株式会社 IT本部 デジタル化推進部長

第一線で活躍する方々の経験と哲学をじっくりと伺うリレーインタビュー。今回は、スズキの野中氏に、ご自身の仕事の原点、変革を進める上で大切にされていることなどについて伺った。

1986年スズキ株式会社へ入社。新卒で情報システム部に配属されたのち、国内生産システム開発やGM合弁工場(カナダ)でスズキ車を生産するためのシステム開発に従事。その後2年間工場への異動を経験した後、発注、生産計画システムの再構築を担当。2010年から5年間インドネシアにIT部門長として駐在。日本に帰任後はIT基盤部長を経て、現在はデジタル化推進部長を務める。JUASでは2018年~2021年に情報セキュリティWGに参加、現在はIT部門経営フォーラムに参加。

日本の当たり前は当たり前ではない

●キャリアについて教えてください。
――1986年にスズキに入社しました。当時、GM(ゼネラルモーターズ)と提携をして、カナダに工場を立ち上げようとしていたころで、入社2年目で1か月半ほど出張しました。GMのシステムを使ってスズキのデータを用いスズキの車を作る、というプロジェクトです。まだスズキのことも十分に知らないうちでしたが、まずはGMのシステムとそのデータ構造を理解するところから始まりました。いきなり違う文化の人たちとの仕事で、仕事に対する感覚の違いがとても勉強になりましたし、インパクトが大きかったです。カナダにはその後も年1回くらい行っていました。その後2年間ローテーション制度で湖西KD工場に異動しました。ここは海外に車の部品を送るところです。工場ではラインを止めてはいけない現場の厳しさを知りました。本社に戻った後は、完成車の生産計画を作るシステムの再構築を担当しました。注文から出荷までのリードタイムを縮めるための仕組みを作っていました。その後ハンガリーやインドのITのメンバーと仕事をするようになりました。2010年からは5年間、インドネシアに駐在しました。どの国も全然違っていましたし、感覚や文化、宗教も違う国を色々経験したので、固定観念に縛られることがなくなっていったかなと思います。

●固定観念を覆されたエピソードがあれば教えてください。
――カナダに赴任した当時はジャパン・アズ・ナンバーワンといわれていて、日本人の給料が世界1位だといわれた時代でした。しかし、現地の人たちの暮らしは、日本が1位なんて嘘じゃないかと思うくらいに豊かでした。また、現地で仲良くなった同年代のメンバーに「何が1番大切なの?」と聞くと「家族が1番に決まっているじゃないか」って言うんですよね。当時の日本人だったら「仕事が1番に決まっている」と言ったと思うのですが、人生観も違いがあるのだなと感じました。日本での当たり前が全然当たり前じゃないということに当時はショックを受けました。

●インドネシアでの駐在についてはいかがでしたか
――インドネシアへの駐在での印象に残る仕事は、新しい工業団地に工場を建設することでした。とにかく悩まされたのは、停電です。さらに、道路工事のときに通信線を切られる事故や、電話局から工場に入る通信線の中継ポイントの機械が盗まれるなど、今までの常識とはまったく違いました。そのため、まずは通信線の経路とそこならどんなリスクがあるかを自分たちで確認していました。新しい工場なのでそもそも工場まで通信線がサービスされておらず、通信線を引く際にはどこを通すのか通信会社と交渉しました。日本から来る人はみんな、「通信ができて当たり前」と思っているのですが、当たり前じゃない世界です。ものすごく苦労したことでしたが、日本に帰ってきても誰もわかってくれません。帰国後すぐ、インドに新たな工場建設の話が動き始め、インドのインフラがインドネシアと同じ状況だったため、このインドネシアでの経験を活かすことができました。

●現地のスタッフの育成はどのようにされていたのでしょうか
――インドネシアの工場の配線も、台車などをぶつけて切れてしまうなど、半年の中で何時間かIT起因で工場が止まってしまいました。「IT起因による停止はゼロにしよう」と現地のスタッフに呼びかけ、一緒に現場を歩いて指導しながら小さなことから取り組みを行い、大きな停止は減らす事ができましたが、どうしてもゼロにならない。なぜゼロにならないのだろうとスタッフと話していると、「何かが起きたから対策して改善ができるのであって、絶対ゼロにはならないです」と言われました。その後、インドネシアのITのメンバーに日本の工場に行ってもらい、「なぜ日本の工場は停止しないのか」を自分で見て、考えてもらったことを発表し、実践してもらい、IT起因の停止をゼロにすることができました。オフィスの中で配線図や配置図を見て考えるのではなく、実際に現場に足を運んで見て考えなさい、ということを伝え続け、「予防保全」の考え方を1年くらいかけて理解してもらいました。

ただ、会社の中では予防保全はできてきましたが、現地の通信会社ではなかなかそうはいきません。通信が止まれば現地のインフラの担当者と必ずその現場に見に行きました。ここまで何度も見に来た会社はスズキがはじめてだと言われました(笑)。

トランスフォームすることが重要、グローバルでの学びあいを大切に

●DX推進をするうえで大切に思っていることは
――デジタル化にとどまらず、「トランスフォームする」ということが大切で、システム化によって現場の景色が変わることが重要です。ただ単にスピードが上がればいいわけではなく、質の変化をともなわねばなりません。システム化しても今までと同じタイミングで仕事をしていることではだめです。さらに、さまざまなところでITが使われるようになりましたが、何をトランスフォームするのか、変革の視点を忘れないということが一番大事なのかなと思っています。

●グローバルでのDX推進体制について教えてください
――当社はインドが一番大きな拠点です。2000年頃のインドはITの分野は遅れている印象でしたが、いつの間にか日本を追い越してIT大国になりました。スズキのインドのIT部門(マルチスズキ)とやりとりしますが、彼らのほうが日本よりも多くの先行事例を持っています。なので、教える側から教わる側になっていることが多いのですが、それでいいと思っています。現在、インド、ハンガリー、インドネシア、日本のメンバーを中心にグローバル会議をやっていますが、その中でデジタルについての意見交換をする「デジタル化分科会」というものを作り、「いい事例をみんなで真似しよう、スピード感を身に着けよう」という基本ポリシーで情報共有をしています。デジタル化のショーケースをグローバルで3か月に1回、2時間ほどの会議で共有しています。2023年11月で分科会が発足してちょうど1年です。

――そのなかで、スタッフエクスチェンジといって、インドと日本のIT部門の人員を交換してお互いの仕事を経験することを行っています。また、SIC Agile Projectという取り組みもあります。SIC(スズキイノベーションセンター)とはインド工科大学 ハイデラバード校にオープンイノベーションプラットフォームを目指して設置した拠点で、ここにITの入社3年目くらいのメンバー4人を送り、3~4か月間現地の学生とチームを作りインドの課題解決のためのソフトウェアを作ります。何に取り組むかもチームで決めて私たちからは一切指示はしません。SICに参加したメンバーがすぐにスズキの事業貢献を担う、ということではないですが、日本のオフィスの中で仕事をしているだけでは絶対に身につかないような視野や、視座が得られていると思います。先日SICに行ったメンバーの報告を聞いていてハッとしたのは、「日本人は物事に対してこうやればできるということが固まっていないと『できます』と言わないけど、インド人はこうやればできそうだなと思ったら『できます』と言って、それからやり方を調べます。なので、できるかできないかの判断が早くて取り組みが早いです。」と言っていたことです。私が初めてインドに行った30歳過ぎの頃、「言ったことはやらないし期日には遅れるしインドで考えた通りに進めるのは大変だ!」と思っていたのですが、彼らは捉え方が全然違うんですよね。若い彼らと送り出した側でこれだけ気づきが違うことは大きな発見で、インドがいつの間にか日本を追い越してIT大国になったのもこういうマインドが大切だったのかなと感じます。日本では、途中で路線変更することを嫌がる人が多いですが、いろいろなことをやってみた結果、新しい、思ってもみなかったことが見つかったりします。我々の世代と違うマインドを若いメンバーが身に着けて、海外に行っても日本人との違いに嫌悪感を持たずに肯定的に受け止めて働けることはとても大きいです。

IT部門の業務は拡がっている、新たな価値を生み出す世界を

●若手の皆様へのメッセージをお願いします
――一つの技術が出てきて、それが成熟して使えなくなるまでの期間がどんどん早くなっています。2009年頃まで誰も電話がこのスマホの形になるとは思っていなかったですよね。変化が早くなっているのは間違いないので、変わることを恐れずに、変化を受け止めていくことが大事だと思います。

●今後の夢について教えてください
――仕事のことでいうと、私がスズキに入社した頃のITはコーポレート分野の効率化領域が多かったところから、IT部門のやる業務はどんどん拡がっています。私たちが作っている自動車製品の車両から出てきたデータが、車両の外側で新たな価値を生み出す世界を作れたらいいなと思って取り組みを進めています。昔はソフトウェアがパソコンを買ったときのおまけのようなものでしたが、ソフトウェアとデータが競争力の源泉となり、生成系AIの登場でさらにその先へ進もうとしています。スズキでもソフトウェアとデータでお客さまへの新たな価値を生み出せるような世界を作っていきたいです。プライベートでいうと、週末にMTBで行く山の、あのコブできれいにジャンプしたいという、そういうささやかな夢はあります(笑)。

●仕事をする上で大切にしている考えがあれば教えてください
――会社に入ったときから何度も読んでいるのは中国の「孫子」です。特にインドネシアに赴任した時のように後ろ盾がない中で、現地のスタッフにどうすれば伝わるのか考えたとき、孫子の「彼を知り己を知れば百戦危うからず」を英訳して伝えました。通信線が切れることひとつとっても、「なぜその線が切れるのか」、「自分たちは何ができているのか」を知っていれば、突然の不慮の事故も無くなるでしょう、昔の人はこのように言っているのだと伝えました。出張に行くときは鞄の中に入れていましたし、今はスマホの中に入れています。それ以外にも「鶏鳴狗盗」という言葉も好きです。つまらないことをする人の例えのようにいわれますが、色々な人がいたら得意な分野は人それぞれ全く違います。この人には実はこういう才能があったんだ、ということに助けられるような部分はたくさんあることを実感しています。

安全な場所で実態に即した情報交換が大事

●野中様にとってJUASとはどんな場所でしょうか。今後JUASに期待することやアドバイスがあれば教えてください。
――私とJUASとの最初の接点は、セキュリティWGへの参加です。ここで、当時我々の会社よりしっかりセキュリティに取り組んでいる方たちと知り合いました。そこで話すことはその場限りという安全な空間であることはとても大事だったと思います。ISO27001を取得する際にも、そこで知り合った方にいろいろと教えてもらうなど、密に実態に即した情報交換ができました。今でも当時お世話になった方を師匠だと思っています。今参加しているIT部門経営フォーラムでも会社規模や管理体制、対象分野が全く違う人が集まっていますが、同じ課題について安全な場で話ができるのは、同じ業界の集まりとはちがう価値があります。課題が共有でき個別の情報交換ができる場はなかなかないので、個社が持っている課題についてもっと小さな塊で深い情報交換ができるような集まりも作れるといいなと思います。

※掲載内容は2024年2月取材時のものです。
※インタビューはJUAS五十井、鈴木が担当しました。

<JUASとは>
・1962年設立の「日本データ・プロセシング協会」が前身。
1992年に組織を拡充・改組し、今の「日本情報システム・ユーザー協会」となる。
・主な活動:フォーラム、研究会、セミナー、イノベーション経営カレッジ、企業IT動向調査、JUASスクエア、プライバシーマーク審査

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