リレーインタビュー

第12回 日本ペイントコーポレートソリューションズ株式会社  石野普之氏インタビュー

誰も踏み入れていない未踏の地に足跡を

石野 普之 氏

日本ペイントコーポレートソリューションズ株式会社 CIO(最高情報責任者) 常務執行役員

第一線で活躍する方々の経験と哲学をじっくりと伺うリレーインタビュー。 今回は、石野普之氏に、ご自身の仕事の原点・想いなどについて伺った。

新卒で株式会社リコーに入社以来ITに従事し、2000年より9年間米国駐在、リージョンのITガバナンス、ERPプロジェクトの責任者を歴任。
帰国後2012年よりリコーのグローバルITの責任者を計7年間歴任。その間、ソフトウェアエンジニアリング会社であるリコーITソリューションズ株式会社代表取締役社長執行役員も兼務。2021年8月より日本ペイントホールディングス株式会社常務執行役員 CIO。
2022年1月の会社分割に伴い、現職。

とにかく会社を変える大きい仕事が好き

●石野さんのキャリアについてご紹介ください。
--大学卒業後リコーに就職して以来、37年間ずっとIT畑です。当初、複写機のソフトウェア設計の部署に配属の予定でした。でも、当時、複写機の開発は7年くらいを要すると聞いて、そんなに長く同じことを続けられるかなと不安が募ったんです。そこで、人事にお願いして設計部門の中で2次元CADの導入を新規で行っていたIT部に配属いただきました。当時2次元CADは日本でも黎明期で、開拓者のようなワクワク感がありました。

●若い時代は、どんなお仕事をされていましたか。
--20代の頃はアセンブラ、C言語などを含めてソフトウェア開発にどっぷりでしたね。R&DのITだったこともあり、新しい技術へ挑戦するマインドが組織全体にあって、色々な事にチャレンジさせていただきました。「誰の足跡も無い白い雪の上に自分の足跡をつけて行く感覚」にやりがいを感じていましたね。常に新しいことを探し、チャレンジすることの楽しさを体得したと思います。

しかし、30代を過ぎたころから、一技術者としてモノを作る喜びより、他の組織や人を巻き込んで、より大きな変革をITで実現することにやりがいが大きくシフトしていきました。例えばNotesを使った「全員参加のIT革命」は、一般社員3,000名をして自らの業務をNotesで改革させるという、まさに全社員参加型のプロジェクトでした。結果として、リコーは2000年を待たずほとんどの仕事がペーパーレスになり、ハンコ文化もなくなりました。
リコーは複写機の会社なのにペーパーレス・オフィスの推進をやっていたんですね(笑)。同時に、出張先からもモバイルで仕事できるようにしました。ネットワークアクセスでなく、モデム接続でしたけどね。本当に、このころは毎日が楽しくて仕方なかったです。

フォーチュンの前髪

--2000年、39歳のある日、突然、米国赴任の話が舞い込みました。当時、英語も不得意ですし本人駐在希望もしておらず、何よりも自分が米国で活躍できているイメージがまったく湧きませんでした。しかし、日頃から部下たちに「チャンスには飛びつけ!幸運の神カイロスには前髪しかない。逡巡していると幸運は去ってしまう。」と言っていた手前、行かないわけにいかないと・・。気が付いたら、「行きます」と即答していました。
しかし、英語ができなくても何とかなるよ、と気休めを言われて赴任したものの、現実はそんなに甘いわけもなく、自室にかかってくる電話は怖くて取れず、会議でもただただ聞き耳を立てているだけの毎日でした。

悔しさをバネに

--そんなある日、いつものようにとある経営会議に参加していたのですが、最後に議長が「今日会議で一言も話さなかった奴がいるが、そんな奴は次から会議に来る必要はない」と宣言しました。そう、会議で一言も話さなかったのは私一人でした。
そのころには2か月ぐらい経っていたので、話の聴き取りはほぼできていたものの、自分の意見を言おうと頭の中で文章を作っている間に話は先に行ってしまったり、ディベートに割って入るタイミングが掴めなかったり。それ以上に「頓珍漢なことを言ったら恥ずかしい」という思いが強く、会議での発言はできていませんでした。

その一言は、顔が真っ赤になるくらい、本当に悔しかった。

次の会議からは、恥ずかしさはどこかに飛んで、怒りを原動力にして会話に加わるようになっていました。もちろん、すらすらと話せたわけではなく、身振り手振りを交え、ホワイトボードを使い、単語の羅列というありさまでしたが、それでも相手に意思が通じているのが分かり、それが徐々に自信になっていきました。
毎晩キャプション付きで映画を観て、慣用句を覚えていったのも懐かしいです。その慣用句を翌日オフィスでどうやって使おうかと、常に考えていました。ある程度ちゃんとコミュニケーションができるようになったと感じ出したのは1年後ぐらいでしょうか。

そんな折、米国に複数あった会社群の統合と基幹システム、SCMの刷新プロジェクトが始動しました。なんと、私は、基幹システム刷新の共同リーダーにアサインされたんです。ところが、共同リーダーのもう一人のアメリカ人とは面識もなく、信頼関係もなく、私のことを無視するという前途多難な船出でした。多分本社から来た英語もたどたどしい日本人の私が彼の眼にはスパイとして映っていたのかもしれません。毎日、プロジェクトメンバーは彼の部屋に相談に入っていきますが、その隣の私の部屋は閑古鳥が鳴いているというありさま。

これで新たに悔しさと、怒りの感情が呼び覚まされました。ある日、自分のラップトップを持って、彼の部屋に入り、会議机にいきなり座りました。そして唖然としている彼に対し、「今日から俺はここで仕事をするから」と宣言したんです。それからは、5年以上に渡り毎日12時間以上ずっと彼と時間を共にしました。きっと奥さんよりも長く過ごしていたんだと思います。気が付いたらいつの間にか、話し合うようになり、理解し合うようになり、信頼し合うようになり、最後には米国におけるベストフレンドになっていました。
ピークでは500名のメンバーが関与する大きなプロジェクトで、途中様々な失敗を経験しながらも、彼と二人三脚で乗り切り、その時の仲間は皆、戦友のように感じ、いまだに付き合いが続いています。

そんな修羅場のようなプロジェクトを通して、最後は何でもできるようになって、毎日が楽しくて仕方がないという状況でした。しかし、それはそれで、「このまま楽しい毎日でいいのかな。楽しいってことは苦労していない、成長が止まっている。」なんて思いが頭をもたげだしました。そして、当時の米国の社長に「日本に帰任させてください」とお願いしている自分がいました。結局米国での生活は丸9年になっていました。

デジタルで変えたい

--その後、帰国し、50歳の時にリコーのグローバルITの責任者になるのですが、張り切り過ぎたのか、しばらくして大病を患い入院してしまいました。75日間生死をさまよう事もありましたが、医師団や家族、その他多くの方のサポートで何とか復帰することができました。 
自分の半生を振り返り、行く末をじっくり考える時間はたっぷりあったため、結果として死生観は大きく変わりました。

一番は、「やりたいこと、やるべきと自分が思ったことは先に延ばさず全力で今やること」ということでしょうか。ただそのやりたい事が、仕事だったという結論は、「自分はなんてワーカホリックなんだ」といまだに自分で苦笑いしています。しかし、入院中に日ごろ読めていなかった本や著名人のコラムなどを熟読するうちに、「これって自分の組織でも試してみたい」、「自分達もこうなりたい」って、ものすごく強い想いが湧いてきて、これをやらずに死ねないという気になりました。結果的にこれが、生活の張りを生み、病にしばし引っ込んでもらうことになった要因でないかと思っています。

そんな中、2016年に渡米した際に、GEデジタルのビル・ルー社長と懇談する機会に恵まれました。当時GEは旧態依然とした古い事業群をデジタルの力で変革させるとして、GEデジタルを発足したばかりでした。私がやりたいのはまさにこれだ!と感化され、当時のリコーの社長にお願いして、IT組織をデジタル推進本部(Digital Transformation Division)と改組させてもらいました。今のDXですね。多分日本では早い方だったと思います。 
自慢話かって?いいえ。なぜなら見事にその野望は潰えました。本家のGEデジタルも同様でしたが、単純にITが横串でデジタルを使ってビジネスを変革しましょうと唱えたところで、変革がたやすく起こるわけがないと、この時痛感しました。

その後、グループのソフトウェアエンジニアリング会社の社長をやらせていただくという機会に恵まれました。IT部門の子会社ではなく、リコーグループの商材のソフトウェア開発という責務を担っていた会社なので、AI、VR、クラウド、アジャイルなど最新技術を駆使した素早い開発が求められていました。
そこで、社員を中心に据え「働きやすく、働き甲斐のある」会社を作ることを目指しました。 いつでも、どこでも、どんなデバイスからでも仕事ができる制度や仕組みを整備し、社員一人一人のワークライフバランスを整えることで生産性を高めるというアプローチでした。おかげさまで、厚生労働省の、輝くテレワーク賞や神奈川労基署のベストプラクティス、ホワイト500企業の上位にも顔を出すなど、これはこれで、今までのIT部門の責任者とは違う、楽しみ、やりがいを感じていました。 

●楽しい社長生活、なぜ転職されたのでしょうか。
--人生の岐路にたびたび出てくる私の悪い癖ですが、「このまま楽しい毎日でいいのかな。楽しいってことは苦労していない、成長が止まっている。」がまた頭をもたげてきたんです。しかも、還暦を控え、もう一度チャレンジをするなら、今しかないという思いもありました。

10倍のスピードで

--転職先の日本ペイントは、140年余の歴史のある老舗の企業です。もっとも今の会長、共同社長のお一人はシンガポール籍の方で、グローバル経営の何たるかを熟知したプロの経営者です。
初めて会長と面談させていただいた時も、「日本人はなぜこんなに遅いんだ。日本人は何故とことん突き詰めずこれぐらいでいいと思うのか。日本人は慎重すぎるし、計画ばかり作っているが、何故なんだ。」と日本人を代表して怒られました。
とにかくお二人とも、デシジョンのスピードも、一旦決めたことの再考(ピボット)も、ものすごく早く、肌感覚では10倍ぐらいは違うのではと感じます。ですから、日本の各企業が悩んでいる、DXによる変革をどうしたらよいかという悩みもここには存在せず、ビジネスの変革が先導し、それをデジタルが後追いでカバーしている状況ですし、データドリブン経営も当然といった感じです。

米国駐在が長かったので、このようなグローバル経営には慣れていたはずではありますが、それでも、そのスピードの速さにはてんてこ舞いさせられています。

話を聴いて、聴いて

●新しい会社に入られて、最初にしたことはなんですか?
--まずは部下となるIT部門のメンバー全員と1on1をしました。同時に、取締役、事業子会社の社長、機能部門のトップ、パートナー企業の役員、とにかく話を聴きまくりました。コロナの真っ最中だったからこそ、これらの会議を皆リモートでやることができたので、1日に13~15件ぐらいの会議を詰め込むことができたのは幸いでした。このおかげで、短期間で、会社の抱える課題や、方向性などがおぼろげながら見えてきましたし、人間関係もできたと思います。

次に行ったのが、部門としてのミッションの明確化、翌年1月からのIT戦略の立案でした。これも、私がやったというより、IT部門のマネージャの皆さんにとことん議論してもらい、自分たちの言葉で、主体性をもって推進できるものができたと思っています。

そして、その戦略を推進する為に、組織体制を一新し、各新リーダーにこの1年間は思いっきり活躍していただきました。結果、濡れた雑巾状態だったこともあると思いますが、ITオペレーション・コストの3割削減を実現しつつ、ビジネスのエンゲージメントの強化、サービス品質の強化を平行して実現してきました。

しかしこれは、あくまでも第一歩に過ぎず、もっともっと高みを目指して変革を続けていきたいと思っています。

外に目を向ける

●石野さんにとって、JUASとは?
--一言で言うと、ITメンバーの出会いの場。研鑽と交流の場です。
もちろんベンダーさんのユーザー会も似たような機能がありますが、ここは、ユーザー企業の集まりですから、ニュートラルに気兼ねなく議論ができるというメリットがあります。さらには、多くの先人の皆さんの知恵をお借りできるのも素晴らしいと思います。

ITのメンバーはともすると、日々の仕事に追いまくられて余裕がなくなってしまう、なんて事になりかねません。それでは井の中の蛙、もしくは蛸壺状態になってしまいます。特に若手の人は、JUASのようなところで、他の企業の同世代の人たちと一緒に交流、研鑽をすることで、刺激を受け、人間関係を社外に広げていってほしいと願っています。

そんな人たちが育って中堅になりJUASの活動の中核を担い、リーダーになってJUASを支える、こんな鮭の遡上のようなサイクルが回ると、JUASもより活性化すると思っています。

人脈ができれば、できるほど仕事が楽に

●日頃、どんなことを大切にされていますか。
--何をおいても人脈ですね。ITは比較的企業間の連携や情報交換がしやすい組織だと思います。したがって、他社の成功例、失敗例などの情報交換も盛んです。特に同じソフトウェアパッケージを使っている場合は、大抵課題が同じですから、とても参考になります。

私もJUASのIMCJ(イノベーション経営カレッジ)の一期生ですが、当時の何人かの講師の方のところには、カレッジ終了後、強引に押しかけて色々生の声を聴かせていただきました。セミナーではどうしても綺麗なストーリーになってしまいますが、ベンチマークでお邪魔すると、生々しい話がたくさん聴けて、とにかく為になります。

ライバル企業に押し掛けるのも、私の特技の一つです。受付で社名を名乗ると先方の受付の方が一瞬怯む瞬間が楽しいです(笑)。

いずれにしても、効果的なベンチマークには、人脈をどれだけ広く深く維持しているかが重要になります。JUASはそんな人脈形成でも、とても価値があります。

常に日々、チャレンジ

私は良くマグロって言われます。常に泳いでいないと死んでしまうという事のようですが、言い得て妙だなと思っています。ただただ欲張りなだけかもしれませんが、常に変化し、チャレンジしていないと居ても立ってもいられなくなります。火中の栗を拾ってばかりと部下からも揶揄されますが、火中の栗の中にこそ、皆が手を出せない面白いチャレンジが隠れているんだと思います。
ということで、これからもチャレンジを続けたいと思います。

※ 掲載内容は2023年2月取材時のものです。
※インタビューはJUAS 佐藤、姉川が担当しました。

<JUASとは>
・1962年設立の「日本データ・プロセシング協会」が前身。
1992年に組織を拡充・改組し、今の「日本情報システム・ユーザー協会」となる。
・主な活動:フォーラム、研究会、セミナー、イノベーション経営カレッジ、企業IT動向調査、JUASスクエア、プライバシーマーク審査

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